Ver6_img

2023の再スタート そもそも、筆者は何者?

いつも通り結論から行きましょう。

エアロネクスト創業者の鈴木陽一とは何者か?

ブログもどきのトップページでは、筆者を掘り下げます。
実は、20年以上前に創業した株式会社0以外に、ドローンベンチャーのエアロネクストを創業していました。
創業から数年は前例の無いペースで新型機を発表し過去に例が無い質と量の特許を出願していました。
その結果、CEATEC JAPAN 2018「CEATEC AWARD 2018」経済産業大臣賞などを筆頭に、あらゆる賞を席巻することなります。
なお、過去の経済産業大臣賞は以下が受賞しています。

・2018年 エアロネクスト「4D GravityR搭載 360°VR撮影用ドローン『Next VR』」
・2019年 村田製作所「全固体電池」
・2020年 スーパーコンピューター「富岳」
・2021年 東芝「フィルム型太陽電池」
・2022年 シャープ「屋内光発電デバイス」

このならびにエアロネクスト(私が創業者でありCTO)が入るのは場違い感がありますね。

技術系エンジニアは実質的にCTO(私)のみ。
機体の設計・製造・特許発案・テストパイロット・デモリール制作など・・・
普通はひとつを担当すれば十分なハズなのですが、この全てをやりきっています。
スタートアップとは、そういう物と一言で片付けることは出来ます。
しかし・・・
その後も、様々なドローン系ベンチャーを見ていますが、現在でも初期のエアロネクストのような鋭さがあるベンチャーは出てきてないと自負しています。

まず、ブログもどきの更新が6年間止まっていた理由が、「エアロネクストを起業したから」になります。

なお、エアロネクスト創業前も、0 [Zero]として以下の様な研究開発を6年間続けていました。
ドローン空撮[技術解説]:トップページ
業務をこなしながら、この様な事を継続していたからエアロネクスト起業のチャンスが巡ってきたと思います。
以下では、どのような経験を積むと、この様な人間になるのかを掘り下げて行きます。

もしかすると、起業を目指す若者が、このページを見ている可能性があるかと思います。
その方々の参考になれば幸いです。

2023年 今の状況から

・エアロネクストから離脱(現在は主要株主)
・2025年10月までは、ドローン関係の業務は自粛期間
・日々の業務は、航空関係の研究開発と新規事業の仕込み
・山梨在中
・10人家族(子供7人)

0 [Zero]の創業から24年。エアロネクスト創業から6年。
以下でも掘り下げて行きますが、成人してから初めてまとまった休みをもらったような状況です。
※実際は、休みも関係無く深夜も動いています。これを書いているのも日曜日の深夜(26時)
少なくとも、同世代の一般の方とはエネルギー量が違うという自覚はあります。
しかし、人生で残された時間がタップリあるとは言えません。(1970年生まれ)
頭の中に、やりたい(私しか形に出来ない)という様々なネタが仕込まれた状態です。
残された時間の中で、この「私しか出来ない」をいくつ形に出来るかの勝負をすることになります。

鈴木陽一のコピーロボット

0 [Zero]は、もっとも社員が多いときは10名程度でWeb制作をしていました。
その後、VR撮影・バルーン空撮・ドローン空撮を経てドローン開発に進みます。
0 [Zero]創業前のサラリーマン時代から、「あなたのコピーロボットを作りたい」などという事は良くいわれていました。
最近では、「AI、鈴木陽一をつくる」というコメントもありました。
これ、私も挑みました。
サラリーマンの頃は、同僚や部下を。
0 [Zero]の起業からは、社員を。
結婚してからは、自分の子供を。
ほぼ、30年という時間を費やしてわかったことは、「鈴木陽一のコピーは不可能」という結論でした。

まず、生まれ持った才能が必要です。
ここに関しては、生まれついた才能が私よりも高い方は一定数います。
少なくとも、過去に「この人には負けた」と感じた友人が2名。
鍛えれば、私が脅威と感じるレベルの特許を考えられそうな方は何名かいました。
私の子供7人という状況は、生まれついての才能のクジは多数引けばアタリが出るのか?
この確認の結果でもあるのですが、結論としては追いつける子供はいませんでした。
この様なコメントを出すと不謹慎とする方も多いと思いますが、敢えて突き通します。
誰もが、いつかは大人になります。
大人として上を目指すなら競争となり、それに勝ち抜くには不断の努力が必要です。
その場限りの甘い言葉は必要在りません。
私は、自分の責任として、子供達に上記の内容は伝えています。
もちろん、特定分野で才能がある子には、その旨もしっかりと伝えています。
ここもどこかで掘り下げますが、進みます。

才能はあったとします。
その次は環境となるのですが・・・
この再現が令和の日本では不可能だからが理由になります。
ならば、時間が進めば可能なのか・・・となるのですが・・・
これも異なります。

昭和後期の理不尽な田舎

これが、「AI、鈴木陽一をつくる」のに必要な環境です。
チャンスに恵まれた令和では、厳しさが足りません。
ITが普通の事になった平成では、情報に対する飢えが生まれません。
昭和の中期までならPCが爆発的に発展する様を経験することが出来ません。
他のパターンがある事も否定はしませんが、アナログとITがオーバーラップしている絶妙な時期の再現が困難です。
ベースとして、アナログで素早く正確に思考できる基礎が固まっている。
そこに、人並み以上のIT知識が入る。
現在では、このバランスを人工的に取ることが困難になってしまいました。

ここまでの人生を振り返ると、絶妙な困難と成功の繰り返しを経て今に至っています。
この瞬間にも、あらたな困難は発生し、それを解決する術を探しています。
そして、解決策を思いつき、それを実現するために強い意志で仕込みをする。
様々な方の人生を拝見すると少なからず、「この方には適わないな」と感じる方が一定数います。
同時に特定の分野では、「世界レベルで、私と戦える方が存在するのか?」と思う瞬間もあります。
今ならば、UAV(ドローン)の基礎設計の速度と確度ならば、私が世界トップクラスであると自負しています。
とても優秀と感じる設計者でも、長い時間で世に出てくる機体は一種類。
私なら、その数倍で新型機を生み出す事が可能です。

自分史

今の自分に影響があったと思える瞬間のみを切り出した自分史が以下になります。

1):生誕~保育園
2):小学生
3):中学~高校生
4):初社会人
5):専門学校
6):2度目の社会人
7):父の他界と家業
8):職人専業時代
9):住宅営業時代
10):0 [Zero]起業
11):0 [Zero]の多角化
12):ラジコン空撮・VR・Full Flash
13):311とドローン空撮
14):エアロネクスト起業
15):第2期航空機開発

1):生誕~保育園 1970~1976

・1970年に、山梨の田舎に生まれる
・2歳でプラモデル
・ボロボロの図鑑
・大人(保育園の先生)への不信感

◆1970年に、山梨の田舎に生まれる
テレビはほとんどが白黒テレビ。
私も一番古い記憶は、白黒テレビです。
自宅の前は3桁国道。両隣は観光ぶどう園。
最寄り駅まで、10km程度。
書店・おもちゃ屋の類いは一切無し。
駄菓子屋も徒歩圏には無し。
2023年現在も宅配ピザの圏外。
中央道は開通前。
周囲に同年代が住んでいる家は一軒も無し。
その当時の田舎としては珍しい一人っ子。
体は弱く、いつも病院に通っている。
何にでも興味を持ち、周囲を困らせていた。
小学校中退のエジソン程ではないが、普通の大人と会話がかみ合ってなかったという自覚はある。
保育園生の古い記憶も、周囲の子供と地動説で戦っていたり、先生と口論したり・・・何だかな~という記憶です。

◆2歳でプラモデル
私が自分の子供の才能を測った目安が、「2歳でプラモデルが作れるか?」でした。
これ、私が出来ていたヤツです。
2歳の場合も、3歳に近い段階であったことでしょう。
7人の子供を育てている経験からすると、2歳の前半で出来ているとするのは無理があります。
もちろん、その当時の記憶はありません。
母を含む、周囲の方の証言から確認しました。
私の一番古い記憶も、自分のプラモデルを勝手に作っている父の姿です。(自分で出来るのにと悔しがっている)
父も母も教育には興味が無いタイプ。
数字の数え方くらいは教えていますが、文字に関しては放置されていたことでしょう。
育児放棄とは言いませんが、現在の保護者が普通にやっているいくつかは出来ていませんでした。
具体的に言いますと・・・箸の持ち方は教えてもらっていません。
一定の年齢になったときに恥ずかしいと思い、自分で覚えています。

時折、20km程度離れた甲府に買い物に行き、欲しがるプラモデルを与えていたようです。
恐らく、時折訪れる母方の祖父(都内在中の大工)も買い与えていたと思います。
ミニカーなども人並みに持っていたと記憶していますが、欲しがったのはプラモデルとのこと。
子供の頃の記憶としては、「ミニカーを買う事は、作る楽しみを捨てている」と感じていました。
文字もわからない事から、図面の形状から組立を推測していたハズです。
今にして思うと、ここを通っているのはとても重要だと気がつけます。
理屈では無く、本能レベルで形を理解出来る。
これは才能という事でしょう。

この時の逸話を一つ。
祖父は都内(世田谷区中里)で大工をしていました。
小さい頃(4歳くらい?)に、現場に一緒に連れて行ってもよったようです。
その際に、祖父が接着材を用いて何かを貼っていた際に、「接着材付けすぎ~」と突っこんでいたとのこと。
若い方はわからないと思いますが、昭和のプラモデルはチューブに入ったプラモデル用セメダインで接着が必要です。
これ、付け過ぎてはみ出すと盛大に美観を損ねます。
大工さんが用いるのは木工ボンドですので、はみ出しても拭き取れるんですね。
ここで重要なのは、この様な現場の知識を自分自身で実践して身につけていたというのがポイントです。
自宅周辺に友人は無し。
兄弟も無し。
自分自身の試行錯誤で、ここに辿りついていたと言うことですね。

◆ボロボロの図鑑
徒歩圏1時間には本屋がありません。
なお、駄菓子屋までは幼児の足では到達不可能。
自ずと、数少ない図鑑は徹底的に読み込まれることになりました。
自動車と飛行機の図鑑があったことは覚えています。
地動説を知っていましたから、「地球」などとう図鑑もあったのでしょう。
とにかく、ボロボロまで読み込んでいたことは覚えています。
色々とやり込むという性格は、これも原因のひとつと考えています。

◆大人(保育園の先生)への不信感
具体的に内容は自粛しますが、「この人=保育園の先生は、子供か~」と感じている保育園生でした。
遊び相手はいません。
恐らくですが保育園でも、一人で遊んでいたのでしょう。
話し相手は、家業の組子店にやってくる建具屋さん。
趣味はプラモデル製作で、話し相手は頭の回転が速い建具屋さんの方々。
この時点で合理性で物事を考える基礎が出来上がっています。
決定的なイベントまではもう少し先ですが、おじさんみたいな子供が出来上がっています。

2):小学生 1976~1982

・決定的な大人への不信感
・1日に8~15kmを歩く(走る)という日常
・そろばん教室
・スポ小剣道
・授業参観で先生をつるし上げる
・学歴軽視が形成されてしまう

◆決定的な大人への不信感
私という人格を形成する上で決定的なイベントが発生します。

理不尽な理由を説明出来ない大人に悟りを開く小学生・・・

小学校へは直線で2km程度の距離があります。
学区は東西で長く、西(自宅)2km~学校~東8km この様な位置関係です。
直線では2kmですが通学路を通ると3km程度の距離になります。
なお、西は市街地となる甲府方向。東は御坂峠から河口湖に至ります。

スクールバスが、東側の遠距離と西側の一部をカバーしています。
自宅は徒歩指定エリア。
問題は西側の一部のエリア。
学校からの直線距離はほぼ一緒。
通学路換算では、自宅の方が遠距離です。
自宅よりも近いはずの近距離の西側生徒を迎えにスクールバスが走る。
このバスは徒歩で歩いている私の横を素通りします。
低学年の頃はまったく疑問に思っていませんでした。
中学年くらいに、この件を大人(先生含む)に確認を取ったことがあります。
この回答に小学生の私が納得出来るものが有りませんでした。
今のようにスマホで地図が確認出来る時代ではありません。
私が一部のスクールバス通学よりも長い距離を通学していると確信が取れるまでには時間が必要だったのです。
具体的に気が付いた年は覚えて無いのですが、4年生くらいかなと推測します。
今の私が考えても、これに真摯に答えるのは難しいところです。(難しいが、キチンと回答出来ますが)
具体的な回答は覚えていませんが、納得出来なかったという点はハッキリと覚えています。
この後も理不尽なイベントが続きますが、先生を含む学校に対する不信感が出来てしまったのでしょうね。
今は、極めて合理的なエンジニアとして成功しています。
目的の最短距離を選ぶことから、結果として周囲からは回り道にみえることでも、疑問を持たずに突き進みます。
同時に、理屈ばかりで動く事をしない人々を嫌っています。
この性格の基本的な部分は小学校の頃に形成されており、「AI 鈴木陽一」が令和の時代では生まれ無いとする根拠の一つになっています。

◆1日に8~15kmを歩く(走る)という日常
通学路は3kmです。
普通なら、往復で6kmです。
この距離でも、十分頑張っている小学生です。
現在の様に父兄の送り迎えなどは原則禁止という時代です。そりゃ~基礎体力付きまくりです。
これに、小学2年生から朝のマラソンというイベントがサービス残業として差し込まれました。
時間で10分。距離で2km程度でしょうか。
しっかりと汗をかいていたと記憶しています。
確か・・・その当時の校長先生の発案だったでしょうか?
確かにスクールバスの子供は運動不足でしょう。
ほとんどの短い距離の通学の子供達も同様です。
でも・・・学区内の最長距離を理不尽に通学している私には苦行です。
結果として、将来の私にプラスになっていることは感謝しています。
ここでの問題は、1日の距離を8~15kmと幅を持たせた点です。
その当時の小学校では、忘れ物をすると自宅まで持って帰るというペナルティが発生していました。
往復で6kmの距離による自宅に忘れ物を取りに帰れと言うんです。
もちろん、授業の時間は終わってしまうのですが、私は取りに帰されました。
今書いていても、まったく非合理な発想です。

これは、今の私にもちろん生きています。
私は業務上でミスが極めて少ない人間です。
この頃の理不尽なルールで、極めて段取り能力が高い人間になっています。
同時に合理的です。
創業時代から、「会社はお金を稼ぎに来ているところ。遊ぶ場所では無い」と常に社員には言い聞かせています。
故に、社員旅行無し・報告書の提出無し(税務関係は除く)・時間外の社員の交流無し。
この様なドライな社風になっています。

ここでスクールバス問題が再発します。
私よりも通学距離が短いスクールバスエリアは、忘れ物持ち帰りのペナルティは発生しません。
1日で2回の忘れ物をすれば、15km程度は走っていたと推測しました。
距離の計算が合わないのは・・・ 素直に通学路を走らないからとなります。
人格形成で大きかったのは、この1日の中で大きな時間を占める通学の時間が一人であった点です。
道も勝手に決めて気分でフラフラとしています。
この通学中の一人の時間で頭の中で色々と考える事を繰り返していました。
一部のスクールバスエリアが、実質的に自宅よりも近い距離に位置するという気が付きなども、この時間に出てきたことでしょう。

この長時間の徒歩とランニングの結果、化け物クラスの基礎体力を獲得することが出来ました。
それに気が付くのは、もう少し先の事になるのですが、50歳を過ぎて体力と気力があるのは、この時の経験からでしょう。
また、今の私は、課題を示されると短い時間で3案程度を即答します。
様々な設計の際にも、短い時間に複数案を自分に示し、外部には選りすぐりの2~3案を提示します。
これを可能にしているのが、小学校の頃の莫大な一人の通学時間がルーツでは無いかと思っています。
もしも、「AI 鈴木陽一」の条件の一つをあげるとすると、幼少期の不合理に長い一人の通学時間とします。

このページを書きつつ小学校の頃を思い出すと、自宅の記憶が少ない事が判明しました。
長い通学距離は基本的に一人。
他の子供の家が遠いことから、自宅に帰ってから遊びに出ることは無い(学校帰りに寄る)
テレビは一台で流れているのはNHKのみ。
恐らく、いつも疲れていてよく眠っていた。
小さい頃はプラモデルなどを買ってもらっていましたが、私が10歳くらいのときに祖父が他界すると、それも無くなります。
本をよく読んでいた記憶はあるのですが、とにかく自宅で遊んでいたという記憶が残っていません。
残っているのは、家業の組子細工の手伝い。
長時間に渡る単純作業をさせられていたという強い印象は残っています。

◆そろばん教室
小学校低学年の時に短期間ですがそろばん教室に通わされていました。
暗算が速いことは、このお陰です。

◆スポ小剣道
体が弱かったことから、保育園の終わりの頃からスポーツ少年団の剣道に通っていました。
現在の様にサッカーなどのスポ少は無く、野球などは早すぎるという年齢です。
多くの子供が剣道に通っていたという時代でしょう。
短い期間で辞めてしまうのですが、年代別の郡の大会で優勝。
確か県大会でも上位に入ったと記憶しています。

◆授業参観で先生をつるし上げる
小学校の頃の記憶から
・ノートは全く取らない
・教科書は持ち帰らない
・夏休みの宿題の多くはやらない
・自分勝手に、より良い方程式をつくっていた

先生の話は良く来ていていました。
そして、ノートは全く取りません。
このノートを取らないことを怒られたという記憶が無いんです。
多少はお小言があったことでしょうけど、しっかりと聞いていたことで免除されていたと思っています。
これも、余りにつまらない話だと、勝手に教科書を読み進めるということをはじめてしまいます。
この結果、算数などでは事業中に、よりシンプルな回答方法などを思いついてしまいます。
挙げ句の果てには、「こんな簡単な事に気が付いただけで、名前が残るのか~」とまで。
私は小さい頃より、学歴軽視の傾向があります。
先生は、教科書を読むだけ。
偉い学者さんも、普通に考えればわかることをしただけ。
時間とお金を掛けて、大学に進むなどは無駄。
この様な考え方は小学校の間に辿り着いています。

本題に戻ります。
具体的に何をしたのかは覚えていないのですが、無数の「教科書よりもより良い解決方法」を思いついています。
その多くは、極めて短い時間に発想していました。
結果は見たことがありませんが、IQは高かったのでしょう。
※IQは、年齢が進むともう少し具体的にわかってきます。

そして、先生に不幸が訪れます。
その先生は・・・恐らく、頭の回転が高い方ではありませんでした。
とある授業参観が算数だったようです。
何かの切っ掛けで私が発言する事になったようなのですが・・・
いつものように、勝手な公式で短時間で回答してしまったようです。
回りの生徒はいつも通りの事なので特に驚きはなかったのでしょう。
父兄もぽっか~んとしたことでしょう。
後日ですが、一部の父兄さんは私のやっていたことが理解出来たようです。
当の本人は何をやったか全く覚えて無いのですが、こう言うエピソードを周囲から聞いていたので覚えていた次第です。

◆小学生:まとめ
令和の小学校では存在することが許されない子供です。
そして、良くも悪くも、こんなことが見逃される時代で育ったからこそ個性的な私が育つ。
平成以降の小学校でも、「個性を重んじて」はクリア出来るのですが、理不尽なストレスを与える事が出来ません。
私の個性というのは、ある程度の理不尽なイベントへの反骨心からなのです
私も社員教育などで気がつけましたが、恵まれた環境から私の様な個性は生まれることはありません。
戦争により化学の発展が一気に進むのは周知の事。
これは投入される物資量が多いことも原因のひとつですが、大きなストレスの方が大きいと個人的には考えています。
人は激しい形でやる気を刺激した方が効率が高くなります。
振り返ると、今の私を形成するのにもっとも大きかったことが、忘れ物を取りに帰されるというところでしょうか。
私は、20代中頃から極端にミスの少ない人間になっています。
特に、事業の方向性の検討など、誤ると大きな問題になるタイプの判断はまず間違えません。
この30年を振り返ると、ミスと呼べる判断は2回くらいしかありません。
ただし、その一つはとても大きな読み違いでした。
具体的にはスマホの普及とFlashプラグインに関して。
この読み違えにより、0 [Zero]の事業の一つであったWeb制作から撤退することになります。

3):中学~高校生 1982~1988

・地味な中学生
・初めてのアルバイト
・秋葉原へ
・高校進学
・文系から体育系へ
・自転車競技(ロードバイク)
・はじめてのC
・赤電話から株の売買
・職業適性検査

◆地味な中学生
地元の中学に普通に入学します。
二つの小学校から人が集まり、学年は150~180人程度だったと記憶しています。
なお、この学校はレミオロメンの出身校です。
特に一生懸命部活をやっていたという記憶はありません。
通学距離は、小学校の逆転です。
学区内で最短距離の自転車通学でした。
成績は学年で一桁をキープ。
特に一生懸命勉強をしたという記憶もありません。
周囲からは、そこそこ成績の良く運動が出来ない人と思われていたと思います。

実は、回りに知られること無くスキーをやっていました。
小学校高学年で叔父に連れて行ってもらったことが切っ掛け。
スキー場までは2時間程度の移動時間を必要としたハズですが、熱心に連れて行ってもらいました。
周囲から情報が入ってこないのは小学生時代と変化はありません。
'80年代ですので、周囲はアイドルなどに夢中。
私は、スキーに夢中です。
アイドルは全くわからない。自分の中のヒーローは、今でもマーク・ジラルデリです。
今に通じるところは道具に拘りをこの時点で持っていた点。
中学生ですが、独学でスキー板を研いでいました。
ただし、この様な事は友人も知らない話です。
あくまで周囲の印象は地味な中学生です。

◆初めてのアルバイト
中学2年生の夏休みに樹脂成形工場でアルバイトをしていました。
仕事内容は、デジタル表示部の樹脂成形パーツの検査。
カセットデッキなどに組み込まれるようなパーツです。
この後も色々なアルバイトを積極的にすることになるのですがとても良い経験でした。
今のドローン開発にも、この時の経験は活きています。
現場の空気感と言いましょうか、ミスがどのように発生しているのか?
どうしても止めにくいタイプのミスがあるとか・・・
現場を知らない方がイメージ出来ない事がわかっていたりします。

◆秋葉原へ
初めて秋葉原に行ったのが中学2年生。
1980年代の中盤です。
親が同伴で初めてのPCを購入してもらっています。
初めてのPCは、PC-8801mkIIで 確か20万円くらいだったと記憶しています。
もちろん、親に購入してもらっています。
恐らくですが、書籍やソフトなどはバイト代で購入していたのでしょうね。
なお、購入店舗は建て替え前のラジオ会館の5階くらいにあったと記憶しています。
その後も、様々な物をここで購入することになります。
後記しますが、高校3年の頃(部活の引退後)は、月に1階くらいのペースで秋葉原に通うことになります。

◆高校進学
この地域の中学生は9割程度が地元の高校に進みます。(これが、レミオロメンルート)
優秀な子は、甲府市内の普通高校になります。
私が本命としたのは、学区外のスキー部がある県立の普通高校でしたが・・・
こちらは、学力が足りませんでした。
この当時は学区外に進むのには尋常では無い学力が求められるという時代でした。
こう言う点は今の子供達が恵まれています。

高校は20km離れている工業高校を選びました。
この段階でも、話をする方の多くは家業の組子屋に訪れる建具屋さん。
大人になれば、腕さえあれば道は開かれると信じて疑っていません。
ただし、父親からは家業の組子屋を継ぐことを断られてしいました。
理由は、組子屋の仕事が減ってきているから。
父に家業を反対されるまでは、小さい頃から甲府工業の建築科を考えていました。
既にPCは持っていたことから、それならばPCに近い勉強をと思い甲府工業の電子科の事を調べます。
その際に、何かが引っかかり・・・電気科に進むことになります。
恐らくですが、パソコン関係の事は本で書籍で独学の方が早そうと感じたからだと思います。

◆文系から体育系へ
高校にて運命のなんとかが動き始めます。
上記したとおり、私はスキーをしたかったのです。
でも進学した甲府工業にスキー部は無し。
適当な部活に入って、趣味でスキーをしようと思っていたところ・・・

担任から、自転車部への勧誘が入ります。

これ、まったくの偶然です。
'80年代中頃なので、世間一般にロードバイクなどという単語は浸透していません。
中学生の頃から愛読書となっているスキー雑誌で、スキー選手がオフトレでロードバイクに乗っていることは知っていました。
今でもそのページをしっかりと覚えていますが、その当時のスター選手のピルミン・ツルブリッゲンがルックのペダルがついたバイクに乗っていました。
その時点の私のロードバイクの知識は、この程度です。
自転車ならスキーのオフトレに良いか・・・
担任も冬期はスキーをして良いと言ってくれたし・・・
とっ軽い気持ちで自転車部に入ります。

◆自転車競技(ロードバイク)
ここから漫画の様な展開になりますが・・・実話です。
まずは、登場キャラクターの紹介。

・私 高校1年生、中肉中背、スキー経験有りの秋葉原好き
・3年生代先輩 国体ロード2連覇 ピスト競技でも多数優勝
・3年先輩のライバル 神山雄一郎さん(ケイリンの最多優勝記録保持者)
・同チームの選手(同級生4名・2年先輩1名)
・2年生の他校の先輩(国体優勝)
・他校の同級生諸々(チームロードインターハイ2位など)
・橋本聖子さん
・部活顧問(現役選手・オリンピック選手)
・コーチ(現役選手・アジア大会銀メダリスト)
・自転車屋のメカニック(無名ですが、私への影響が強かった)

繰り返しになりますが、実話です。
某アニメを初めて見たときは、私のことと被ったことが多くビックリしました。
あちらは、千葉から秋葉原に自転車で通って体力が付いていた。
私は小学校の通学距離ですね。
入部時点で自転車競技の素人であるのも一緒。
秋葉原好きは共通(その当時は完全な電気の街ですが)
山岳向けという点も同じ。
あちらは、極端なケイデンス重視。私は真逆。
周囲のキャラクターの濃さや強さなども同じ。
重要な登場人物となるのですが、3年の大先輩など、見た目や話し方まで巻島先輩です。

部活の初日の話です。
素人の私は軽い気持ちで入部しています。
そして、初日の部室に入ります。
機材は部からの貸し出し品。
レーサーパンツとレーサーシューズのみ自分で購入しています。
この初日に初めて大先輩などに会うのですが、「とりあえずパンツ脱いで、レーサーパンツ履いて・・・」
これ、素人で初めて聞くと、いじめですか?と思ってしまいます。
股ずれを防ぐ事からコレで正解なのですが、何も知らない素人はビックリしました。
そして、学校から往復で80km(甲府から長野県境まで)程度の練習に初日から投入。
初日から、ストラップ式のペタルで現場に投入です。

問題は、そのチーム構成です。
3年生大先輩は、前年度の国体ロード(個人)の優勝者。
顧問もバリバリの現役選手で、こちらもロード優勝経験あり。
同級生の全ては、経験者で、ケイリン選手を目指している者が複数。
当然ですがついて行けなくてぶっちぎれる。
伴走車などもありませんが、命の危険を感じて勝手に折り返しました。
それでも、次の日は血尿です。
とにかく、最初の一週間が人生で一番厳しい時間になりました。

その後は、通学で往復40km。
平日は、部活で80km。
土日は、部活でロードなら150kmかピスト。
つまり、平日で平均100kmを毎日の様に走っています。
そして、走行ペースは全日本クラス。
片側2車線の国道などでは、平均速度は50km/hを超えます。
下り坂では、大型トラックの後ろでフォーメーションを組む。(現在では犯罪レベル)
はい。完全に漫画です。
私の長男が昨年まで高校で競技をしていましたが、この辺の認識が現在と大きく異なっていることにビックリしました。
なお、この長男の顧問が、私の顧問と一緒の方です。
親子で同じ恩師というのも漫画の様です。
その後も私の周囲はなぜが自転車競技経験者があふれるのですが・・・不思議です。

そして、ネタの追加。
同じ教室の左後ろの親友。
彼は、野球部のエースで、高校卒業後はノンプロに進みます。
大人になり一緒にゴルフをする機会があったのですが、化け物であったことをその時にも感じました。
ちなみに、私が2年の時には甲子園のベスト8(投げたのは友人以外)。
どう考えても、周囲が漫画だったんです。

1年生の夏休みになります。
そこで県の学年別大会が開かれました。
その日は、県外の何かの大会と被り、同校の2名の選手(強い)は遠征しています。
それ以外の県内の多くの1年生は参加。
恐らくですが20~30名程度の参加人数かと思います。
学年別大会はピスト競技で、5種目でした。
私は、200mのフライング(加速を付けながら最高速で勝負)で2位。
残りの4種目は・・・全て優勝でした。
ただし、この優勝はそれほど周囲から評価はされませんでした。
なぜなら、経験者(どちらもケイリン選手を目指している)2名が不参加なので・・・
私自身も同様な評価でした。
ただし、ここには将来インターハイのチーロムードで2位となるメンバーが含まれています。

そして、1年生の新人戦を迎えます。
上級生も含めた大会になります。
下馬評では、他校の2年生先輩がぶっちぎりのトップ。
この方ですが、次の年の国体優勝選手です。
これ以外にも、青年も含む(つまり、国体優勝経験者多数参加)選抜大会でも優勝する事になる、スター選手です。
歴史に残る化け物がいたことから目立ちませんが、普通に漫画の主役になれます。
個人は2種目エントリー出来、私は2年先輩と同じ競技にエントリーしています。
結果は・・・どちらも1位。
素人で入部して、半年でこの成績です。
流石に、この成績で周囲の評価も変化します。
その当時の山梨の自転車競技は、国内トップクラスです。
この環境下で、1年が新人大会で個人タイトルを総ナメです。
なお、この瞬間が私のピークとなります。
この後は腰痛により、まともに練習が出来なくなります。
現在のスポーツ医学なら何とかなったのかも知れませんが、普通に病院にすら行きませんでした。
距離も速度も出せなくなり、2年の新人戦が引退試合となりました。
腰痛の原因は完全なオーバーワークと極端に重いギア比から。
ピストのギア比は中野浩一と同じ。
ちなみに、スタンディングから200mの持ちタイムも中野浩一と同じでした。
ビストの団体競技(その当時のイタリアン)では第一走者だったのですが、本気で走ると2走目以降がちぎれるというあり得ない脚力を持っていました。
なお、このチームですが私が2年となる関東大会の団体追い抜き(4名・4000m)で、作新学院(高校記録保持)と同時に走っています。
そして、このチームに途中まで勝っていたという布陣です。
現在のロードレース用語で言うところのパンチャーに該当すると思います。
私自身のことでので、言い切ることが可能ですが、ドーピングはしていません。

腰痛が出てからは、存在感が薄れていきます。
2年生になり、全国大会などにも出て行きますが思うような成績は残せません。
予選くらいは通りますが、優勝に絡むことが出来ませんでした。
唯一の例外だったのが、2年生で出場していた関東大会のロード。
前乗りだったのですが、宿の温泉が効いたようです。
大会当日は、久しぶりに腰痛無しで走ることが出来ました。
会場は群馬サイクルスポーツセンター。通称郡サイ。
このコースと私の相性が良かったことから、周回の半数以上が私がファストラップでした。
下りのテクニカルなところで仕掛ければ、誰も付いてこれない。
これ、今の私がコーチなら、「ゴール1周前に一人逃げしろ」と指示するところです。
このクラスの大会ならゴール前はお見合いです。
この一人逃げを可能にするのがスキーの経験です。
テクニカルな下りでは、その当時のロード選手は誰もついて来れなかったのです。
現在の選手に例えると、トム・ピドコックですね。
郡サイで、ペダルを地面に擦りながらコーナーリングする高校生でした。
本人も、さすがにこの大会は勝てると思っています。
繰り返しになるのですが確実に勝つには、逃げれば良かったのです。
でも、私は基本的には自転車競技の素人なのでその様な知識は無し。
先輩などは一人逃げで勝つのですが、自分は化け物では無いと自覚しています。
いろいろありますが、関東大会なのに競ることを選んでしまいます。
ゴールスプリントには最終的に20名程度が挑んだ思います。
後端から一気にまくるという戦略で最終コーナーを立ち上がります。
さあ、ここからというところで・・・
直前の選手がブレーキング。
私も、それを避ける為にブレーキ。
そして、集団は走る去る・・・

ここでも、漫画パワーが炸裂します。

そのブレーキを掛けた選手は千葉の選手。
そして、ウェアーは黄色でした。
今でも、その瞬間をハッキリと覚えています。

その後、2年の新人戦で引退します。
私は自転車競技を好きで始めたという人間ではありません。
基本的には、苦しかったという印象しか残っていません。
短いですが、トップクラスの成績が残せたのは、小学校の通学によるところが大きいでしょう。
この時の経験も、現在の仕事にプラスの影響になっています。
一般のドローン開発者との違いに、50km程度の空力を体で知っているが入ります。
2023年現在では、巡航時の横風まで考慮しているドローンは皆無です。
私の設計では、当然の如く入るのですが、これが高校の頃の自転車競技の経験がいきています。
仮に普通の生活をしているなら・・・ピスト競技で、「橋本聖子さんの後ろに付くと楽になる」などの経験は出来ません。
普通(インターハイ優勝クラス)の男子高校生よりも、彼女の後ろに付いた方が空気抵抗の関係から軽く走れます。

また、大きな影響を与えたのが自転車のメカの方。
この方も漫画のキャラ並に濃い方で、整備の基本はこの方に教わって(見て盗む)います。
機会があればお礼を言いたかったのですが、その後の足取りがつかめませんでした。
この後も自転車の整備は当然として最終的には自動車のエンジンなども自宅で下ろす事になるのですが、この出会いが無ければどうなったかはわかりません。

◆はじめてのC
これは授業中に読んでいた愛読書です。
プログラムに関する書籍ですね。
その当時の私は学校で勉強をほぼしていません。
学校で寝ることは当たり前。
1時限目で寝て、起きたのが昼食後という記録も持っています。
当然ですが、成績はボロボロです。
1000名の学生がいましたが、2年連続で漢字書き取りテストの最下位という記録が残っています。
赤点も無数に取っていたはずなのですが、補修というのを受けた記憶が無いんです。
ナゾのパワーで卒業しています。
この成績が下がった理由の一つが、独習のPC系の学習でした。
その当時はパソコンは、ゲームのひとつ。遊びと取られていた時代です。
確か、パソコン雑誌の裏表紙に、PC9801(16ビット)が100万台を突破!などと書かれていた時代です。
なお、私が持っていたのはPC8801(8ビット)でした。
雑誌などは16ビット中心でコードが書かれていたことから、何としても98が欲しい!と思っていた時期です。
部活を引退してからアルバイトをはじめますが、一式で50万円程度となる98は高値の花でした。
なお、アルファベットのブラインドタッチは、授業中に紙のキーボードで覚えました。

◆赤電話から株の売買
PC9801を買いたいという一心で、実家の株運用を任せてくれる様に父親と交渉。
一部の株の売買を勉強を兼ねて任されます。
その当時の周囲は、少年漫画を読んでいるかアイドルを聞いているか。
私は・・・校内で日経新聞を読み、ラジオ短波で株価を聞いているという高校生になりました。
学校が甲府にあったことは都合が良く、学校帰りに野村證券によることも出来ました。
株の売買は、平日の昼間に行う必要があったことから・・・学校の赤電話から売り買いをしています。
私は、同級生では珍しい起業家(社長)にその後なるのですが、この時代に基礎を学んでいます。
その後にアルバイトと株の収益で、PC-9801VX2を購入しています。
このPCの購入がなかったら、間違い無く今の私はあり得ません。

◆ファストフードでのアルバイト
自転車競技を辞めてからは学校の近くのモスバーガーでアルバイトをしていました。
その時のあだ名は、「店長」でした。
高校3年ですが、店長です。
もちろん、本当の店長はいたのですが、私の方が明らかに働きは良かったですね。
なお、自宅に近いという理由でマクドナルドに鞍替えしたのですが・・・
ここ、一日で辞めました。
辞めた理由は語りません。

◆職業適性検査
ここで、IQの件を回収します。
確か高校3年の頃に職業適性検査が実施されています。
5段階評価で、様々な仕事の適正を示すという物でしたが、ここでやらかします。
50個くらいの職業があったと思いますが、こんな成績です。

新聞記者 4/5

はい。
新聞記者ですか・・・向いてないんでしょうね。
だって、他の全てが5ですから・・・
なんてことないでね。
これIQ検査です。
なお、私のIQが異常値に達していたことに、まだ気が付いていません。

4):初社会人 1989

・求人票の虚偽
・第二種情報処理技術者試験
・最年少のライン長
・おめでとう1,000円

◆求人票の虚偽
その当時は当然ですがインターネットはありません。
求人を調べるのは、基本的には校内で閲覧出来る求人票のみ。
本当ならソフト開発やロボット開発に進みたかったのですが、その様な求人は無し。
今に思えば当然の事で、その道に進みたいなら進学することが最善だったのですが、誰も指導してくれません。
※3年生の担任に私がPCを教えていました
深くは考えずに、「開発の仕事で給料が高い」という理由で地元の工場に就職します。
その会社にネガな事を書くことから企業名は出しませんが、こんな会社でした。
・同期は100人
・工場は県内に3カ所で配属場所は、全て自宅から遠距離
・BtoCよりBtoBが多め

正式入社の前にアルバイトで入ったのですが、その段階でこの会社が自分に合わないことはわかりました。
入社式の前に、この会社は直ぐに辞めると心に誓って入社しています。
理由は・・・
この会社は、学歴が高卒では生産管理で打ち止め。
開発は全て大卒。
そして、求人票には開発と記載されていた・・・

◆第二種情報処理技術者試験
社会人になって直後の春の第二種情報処理技術者試験を受けましたが不合格。
その後に猛勉強して、秋の第二種情報処理技術者試験に合格します。
なお、高校時代はC言語を勉強していましたが、この時はC言語が選択出来ませんでした。
合格率は、確か10%以下。
私は、10代の独学という条件でしたので、この場合は合格率一桁の前半でした。

◆最年少のライン長
辞めることを決めて猛勉強をしているときも仕事はしっかりとやっていました。
最初は5名程度のラインに投入。
確か、OEMの投射器を作っていました。
その商品がジャイアンツ戦のCMで流れる。
当時を知っている方はわかると思いますが、これは凄いことです。
でも、作っているのは私たち5名しかいないという現実・・・
バブルですね。
その後、自分のラインを持つ事になります。
その当時は19歳。
私の次に若いライン長が24歳。
評価はされていたのでしょうね。

◆おめでとう1,000円
私のラインでは、ATM向けのスキャナが製造されていました。
出荷台数は、月に数百台程度でした。
これが、私がライン長になったとたんに不良率の大幅な改善が見れました。
時効だから公開しますが・・・
実は、客先から提供されていた試験機のプログラムを書き換えていました。
だって、9801なんですよ。
このプログラムが非効率で無駄な調整が必要だったのです。
そして、インタプリタでソフトの開発環境まで目の前にあるんですよ。
もろちん、客先のプログラムを勝手に書き換えるのですからアウトです。
客先は、某有名企業ですが、田舎の高卒のライン工がやらかすとは想定していなかったでしょう。
あの時の成績急上昇は、私が犯人でした。
その結果ですが、私のラインは驚異的に利益をたたき出す場所となりました。
確か・・・月に800万程度の収益増になったと思います。
その結果、表彰されることになるのですが・・・
お祝い金は1,000円でした。

5):専門学校 1990

・IBMでは高卒は採用しないとの事
・まさかの入学拒否
・人に教えることを学ぶ
・スキー三昧

◆IBMでは高卒は採用しないとの事
話は前後するのですが、第二種情報処理技術者試験合格のタイミングでIBMに飛び込みで営業をしています。
何をしたのかは覚えて無いのですが、入社を試みたのです。
その結果わかったのは、IBMでは高卒は採用しないとのこと。
それでは専門学校に入りますかと、地元の学校を受けました。
なお、この時点では最初の会社でライン長をしています。

◆まさかの入学拒否
学校の志望動機は、「就職に必要だから」(IBMから門前払い)
そして、学校からの回答は、「合格だけど入学出来ない」でした。
ここでも、誰かに指導して欲しかったのですが、私は大学に進むべきだったのです。
でも、誰も道を示してくれないんです。
この時は、資格さえ取れば社会でやっていけると思っていた時期でした。
そして、目標は最高峰。IBMです。六本木です。
資格は既に取得済。
後は学歴です。
順番が違う事に突っこんだら負けです。

どちらにしても納得が出来なかったことから、専門学校に直談判です。
その際に示されたのは・・・
・あなたの資格は、ウチの先生も持ってないから
・IQおかしな事になってるよ

ここで、客観的な私の評価がはじめてわかりました。
今なら、GAFA行きの人材ですね。
入っても無駄であることはわかりましたが、この段階でも大学に進む気はありません。
あくまで学歴軽視である点に変化はありません。
専門学校に一回入って、次の就職からが勝負と考えています。

なお、ここに入学が認められてから、勤め先に退職届を出します。
その際に引き留めの材料が示されます。

来年から、新しい専門学校が出来ます。
我が社も資金提供しました。
そこに、会社が費用を出しますので通った後に、開発に入らない?

普通に考えたら、これに乗っかりますよね?
でも、私は正義の人です。(この意味がわかる方、よく見て下さいね)
求人票に、「開発」と書いて、それを守らない会社などは許せません。
自腹で専門学校に通う事にしました。

◆人に教えることを学ぶ
専門学校は1年のみ通いました。
覚えたことは、人への教え方でした。
当然の事ですが、学校からは何も学んでいません。
なお、入学と同時に玄関に、「○○クラス・鈴木君 第二種情報処理技術者試験合格」と貼られていました。
許可くらいは取って欲しかったですね。(その場合は、認めませんが)

◆スキー三昧
高校3年の時に自宅から10分の距離にスキー場が出来ました。
その時から、スクーターでスキー場に通っています。
専門学校時代も、基本的にはこのスキー場。
最初期の人工雪ですので、事実上のスケート場です。
年間滑走日数は100日を超えています。
中学校くらいには、ダウンヒルに憧れていたのですが、これは体型の関係から勝機は無し。
体型に向いているのはフリースタイルと判断して、書籍で勉強して独学でモーグルに。
なぜか、モーグルはエアーであると勘違いして、飛びまくる毎日。
スキー場はモーグルコースなども無い事から天然コブでジャンプ。
高さが稼げないことから、スピードで滞空時間アップ。
アホみたいな速度で、バックスラッシュを決めていくという危険な若者になっていました。
ここがモーグラーとしての最盛期。
ウェアは、最初期のクイックシルバー(確か、フランス製。恐らくレア)
板は、190~207をコースにより選択。
乗っている車は、クイックシルバーロゴ入りのランクル40系(DIY塗装)
当時はスキーバブル最盛期ですが、その中でも目立ちまくっていました。
その30年後くらいに同級会があったのですが、私の話はこの頃に集中していました。
地元の小学校の友人は、文系と思っていたハズなのですが、このスキーの一件でキャラ変してたのですね。

6):2度目の社会人 1991

・IBMに劣る時価総額
・1ヶ月で辞表提出
・父の発病
・大人の醜さを学ぶ

◆IBMに劣る時価総額
2度目の新卒です。
今回は、資格で武装済。
本来なら、IBMに挑むことになるのですが・・・
結果としては地元の企業から選ぶ事になります。
原因は、スキー。
やまり都内に就職すると、100日の滑走日数の確保は不可能です。
C言語を使えて地元という条件で探しました。
その結果、IBMよりは劣りますが、その当時の時価総額では世界20位以内に入っていた会社のFA部門が見つかりました。
見事合格となりますが、最終的にこの会社には入りませんでした。
原因は、合格時に、「これ以上、他社を受けないでくれ」が条件に入ったことから。
コレさえ無ければ、この会社に入っていました。
今でも不変ですが、私はこの手のことが大嫌いです。

そのかわりに選んだのは、地元の小さなソフト会社。
今では都内で大きな会社となりましたが、当時は10名以下の小さな会社です。
なお、この小さな会社から、入社を断った大きな会社に外注で通う事になります。
当たり前の事なのですが、C言語で仕事とすると職場は限られてしまうのですね。

◆1ヶ月で辞表提出
2度目に入社した会社ですが、初任給を受け取った翌日に辞表を出しています。
理由は・・・
入社時に約束した給料から、1,000円程度安かったから。
会社としては、私の同期は短大や2年の専門学校。
私は有資格者でも1年だから同じ金額にさせてもらった。
私としては、求人票に示されている専門学校卒+資格手当という認識でした。
もちろん、入社前に交渉されているならこんな事はしません。
そろそろ、わかってくるかと思いますが、私はこの手の事に徹底的に戦う人間です。
たかが1,000円をスルーしません。
会社側が何を言っても頷く気はありません。
その時点では、もう一度IBMに向かうか・・・と思っていました。

その後、何回の折衝で残留が決まります。
理由は、専門学校時代に貸しがあった校長を動かされたから。
友人の卒業に関して、借りがあったことを持ち出されて交渉に応じました。

なお、この時の経験は、この10年後に起業する0 [Zero]に影響があります。
0 [Zero]はカンパニーカーに代表される独自の考えで運営されています。
その根っこの部分は、人材の能力が正しく評価されること。
当然ですが、学歴はまったく評価されません。(資格は評価しますが)
何よりも重視するのは結果。
そして会社は、その結果に対して最大限の評価を返す。
この様な考えになった理由のひとつが、この一件です。

色々と思うところはありましたが残留が決まった段階で頭は切り替えています。
頭がスキー寄りになってしまったことから、勉強のペースは落ちていた時期ですね。

◆父の発病
ここで人生に大きな変化が訪れます。
入社から3ヶ月後に、父の末期ガンが判明します。
闘病から半年で他界することになるのですが、私の人生はここで大きく動く事になります。
実は、小学校くらいには家業の組子屋を継ぐ物と思ってました。
故に、小さいときから進学先は甲府工業の建築科と思っていたのです。
これが高校進学を検討していた際に父から止められてしまいました。
普通なら普通高校から大学に進むべきところなのですが、なぜが甲府工業という部分だけが残り、結果として電気科に進むことになります。
ここも普通なら電子科となるところなのですが、いつもの通り勉強は独学で良いと考えていたために電気科を選択しています。
仮に、他校や電子科を選んだ場合は、自転車部の顧問との繋がりがない訳なので人生は大きく変わる事になるのですが・・・
運命とやらは不思議ですね。

ここでの大きな変化は、父の死に様を目の当たりにしたから。
末期を悟っても、激痛と闘いながら最後の納品に挑む姿を見ていたからです。
その当時の山梨では、父が唯一と言って良い専業の組子職人でした。
止められていましたが、私が組子職人になることを父が最後に認める事になりました。

なお、父は肺がんでなくなっいます。
無くなる5年くらい前にタバコは止めたのですが、間に合わなかったようです。
現在でも、周囲の方にタバコを吸う自由は認めていますが、基本的にはやめて欲しいと思ってます。
理由は書くまでもないですね。

◆大人の醜さを学ぶ
2度目の就職先は、組子屋への転職の為に辞める事になります。
この際に、具体的には書けませんが、大人の醜さを学ぶ事になります。
私の人生の目標のひとつに、この時の代表に、「あの時はお世話になりました」と言うことを目標としています。
入社時の1,000円の時もそうでしたから、この方の根の部分を認める事は出来ません。
あなたの目が、どれほど節穴であったかを証明する事が、私の人生の目的にひとつになっています。

7):父の他界と家業 1991

・私が21歳であったことの意味
・住み込み修業という時代では無かった

◆私が21歳であったことの意味
父は、私が21歳の時に他界しました。
このタイミングがズレていたら、人生は大きく変わる事になったでしょう。
仮に、中学生のタイミングであったなら、私は外科医を目指したと思います。
後ろにズレていた場合は、プログラマからSEに向かっていた事でしょう。
21歳であったからこそ、組子職人に躊躇無く飛び込めるという条件が揃っていました。

◆住み込み修業という時代では無かった
葬式が一通り終わったところで、組子修行の先を探す事になります。
この場合も、目指すは最高峰。
私は子供の頃から建具の雑誌を見ていました。
それは、建具工芸研究所が発刊していた建具工芸です。
調べて見ましたが、1929~2013年という歴史を誇ります。
この工房に、アポ無しで飛び込みで門を叩きに行きます。
ここ(埼玉)ならば、住み込みで小僧を雇ってくれるでしょうと思っていたのですが・・・
この時点('91)でも、住み込み修業などという時代は終わっていたようです。
それでも熱い思いは伝わったようで、埼玉県内の原口工芸を紹介され、そこに勤める事になります。

8):職人専業時代 1992~1994

・懐中電灯写真
・指が10本残った
・もっともストイックだった時代
・月の売上げが7万円

◆懐中電灯写真
職人の修行時代に、写真を独自に勉強していました。
理由は、他の方が作った物も含めて、様々な組子細工を可能な限り美しく写真に残すため。
実は、高校3年に自転車部から写真部に移籍していました。
これ、別に写真が好きだったわけでは無く、友人が写真部だったからついでにというヤツでした。
その当時の写真部は暗室作業などもある時代です。
後ほど、この経験が聞いてい来るのですが、一応は暗室作業の基本もこの時に覚えました。

話は修行時代に戻ります。
いつもの通り、書籍を中心とした学習です。
流石にカメラくらいは無いと勉強にならないと思い、当時の最新型AF機を購入。
どんどん、勉強が進んでくると、AFでカメラを覚えてはダメだと感じて売却。
その当時でも時代遅れになっていた、MFカメラにて勉強を進めて、最終的にはAEすら排除する方向で極めます。
お金はありませんので、あらゆる場所で自分の目を露出計にする訓練。
ネガなら、AEは完全に不要。
スポット測光計が在ればポジでも数秒で露出が決めれるようになりました。
その後に行き着いた先が、懐中電灯写真。
・撮影場所は、夜の河川敷
・基本的には新月(作品によっては月も被写体の一部)
・バルブシャッターで撮影時間は、10分~8時間
・木や草に、フィルター付きの懐中電灯で照らして描写

本当は作品が残っていれば説明がしやすいんですが・・・見つかったら公開しますね。
夜景撮影とは根本から違います。
イメージは、黒いキャンパスに懐中電灯で画を描くということになります。
この世界が難しいのが、全て計算で作画すること。
あらゆるカメラの知識を必要とします。
露光やシャッターの仕組み。
長時間露光時のフィルムの扱い。
デジタルから入ったカメラマンは全く理解出来ない世界ですね。
後にマンション眺望撮影にて10億画素を超える写真撮影を可能にしたのが、この時の経験です。

◆指が10本残った
私の目標は、速やかな独立です。
当然ですが、貯蓄などはありません。
給与は出ると言っても見習いです。
さらに、母をを養う必要もありました。
多少は、父の遺産もあるハズなのですが余裕はありません。
本来ならお礼奉公などもすべきところなのですが、駆け足で修行は終了させました。
2年程度でしたが、付近にアパートを借りて工房に通う日々。
昼間は普通に働いて、定時以降に自分の研究。
自宅に帰ってからは、C言語にて組子設計のプログラムを書いていました。
恐らくですが、原口工芸の師匠(社長)は、私を現在の名工などになって欲しかったのかと思います。
具体的に会話はしていませんが、指導内容がこちらよりになっていました。

なお、現在では機械の進歩により減ったと思いますが、その当時の組子屋は非常にケガの多い職業でした。
指にケガの跡が残っているのは普通で、多くの職人さんは一本くらいは掛けていました。
私は全くケガをしなかったのですが、後輩などは形成外科に通うようなケガをしていました。
私が辞めるときに誰かがこんなことを言っています。
「指が10本あって修行を明けるのは珍しい・・・」と。
建具屋は法人であることが少ない業種なのですが、こう事も理由の一つです。

◆もっともストイックだった時代
この数年間が、私の人生でもっともストイックであった時代です。
本当に貧乏でした。
アパートを借りながら、修業先の埼玉と山梨の往復。
材料や工具を動かしていたことから自動車での移動でしたが、高速道の使用は最低限。
ジュースなども一本も買っていません。
確か、自動販売機のジュースが100円から値上げされたのですが、これに気が付くのに数年を必要としていました。
食事も肉(ささみのみ例外)もお酒も断っています。
乗っていた車は、屋根もドアも無い4WD車。
雨が降っても、雪が降っても、この車なのでその地域では有名人です。
スキーは、組子職人になると決めた瞬間に辞めました。
全く、体を動かさないのもマズイと思い、トライアスロンを始めます。
理由は、ロードバイクは腰痛で乗れないから。
それも、完走目的では無く、勝利目的のタイプです。
友人からは修行僧と呼ばれていた時代です。

◆月の売上げが7万円
埼玉の修行から戻り、家業を継いだのが'94年(23歳)です。
実家に戻るタイミングで、修業先でも使っていたNCラジアルソー(800万くらい)を導入。
材料なども数百万相当を準備。
これにより従来ではあり得ない、速度と精度で組子を生産できる体制が用意出来ました。
技術さえ在れば、先行投資などは直ぐに回収できると思っていました。
しかし、その認識は甘すぎました。
同業者の数倍の速度で制作は可能。
材料も最上の物を用意。
そして、価格は相場以下に設定。
ちなみに、腕前は全国トップクラスと戦えるまでになっています。
私の作成していた組子は、間近い無くコスパで全国トップでした。

この組子屋として独立していた時期に、後々の行動原理の基本を決めてしまうイベントが発生します。
それは、父の代からのお客様への納品時。
比較的に都市部にあり代替わりをした息子さんが仕切っていました。
先代も良く覚えていなかったのですが、2代目とは初めてお会いしました。
その際に、この様な事を言われます。

どこで作ってもらっている?
○○と比較すると高い。安くしてくれ!

その当時の私は、子供の頃から知っているベテランの職人さんからは快く迎えられていました。
一部には、恐れられている?と感じるくらい丁寧に対応されていました。
少なくとも手加工で組子が作成出来る建具屋さんからは、私の異常な作り込みは理解されていました。
もちろん、値引き交渉などは一切ありません。
問題のお客様と具体的に何を話したかは覚えていません。
しかし、先方の望む金額以下(恐らく材料代くらい)で支払いを受けて、逃げるように帰りました。
もの凄く、悲しい気持ちになったことは覚えています。

この件は、その後の仕事に対するときに姿勢に大きく出てきます。

仕事はキッチリとこなす。値引きは受けない。
そして、理不尽な態度を取られた場合は、こちらから縁を切る。

※値引き交渉をされただけで、次の仕事すら受けませんでした

この話が決定的でしたが、2度目の就職で給料を値切られたりしたのも大きな原因です。

仕事も何とか回っていましたが、1995年1月に阪神淡路大震災が発生します。
理由は不明なのですが、仕事は突然途絶えます。
そして、その後の売上げは過去最低の月7万円まで下がりました。
仕事は無かったので、テレビで被害状況をよく見ていたという記憶が残っています。
そして、この時の記憶は、311の際の空撮ボランティアに繋がることになります。

9):住宅営業 1995~2001

・就職のためのマイルール
・連休の無い20代
・年収1000万超え
・キャリアアップ

◆就職のためのマイルール
月の売上げが7万円になったところで、副業を探す事にしました。
機械購入の借金があります。手持ちの現金はほとんどありません。
とにかく、お金が必要でした。

ここまで、職場が3回変わっています。
一度目は高卒時の新卒
二度目は専門学校卒業時の新卒
三度目は職人の修行で飛び込み

今回は中途採用を探すことになるのですが、新聞などを取っていなかったことからチラシの求人などはわかりません。
そこで職安に行くことにしたのですが、その門をくぐる前に自分自身に一つの約束をします。

つべこべ言わずに、最初に提示された仕事に就こう

窓口の方に、「稼げる仕事をお願いします」とお願いしていくつか示された中の最初の仕事を選びました。
確か、当日か翌日に面接。
そして、面接の翌日に入社です。
入ったのは、地場のハウスメーカー。
その店舗(本社)には、15名程度の営業さんがいたと思います。
後々にわかることですが、とんでもないブラックの会社でした。
ブラックですが・・・稼げる仕事ではありました。

◆連休の無い20代
入って1年くらいは、大変でした。
基本給は高かったことから、ギリギリで生活という事はなくなりました。
大変だったのは、お客様を回して貰えなかったことです。
新規の客様は、モデルハウスで待ち構えている営業さんのローテーションで振り分けられます。
当然ですが、新人の私には新規の顧客を回して貰えなかったんですね。
そこで、私は部長から、「過去にモデルハウスに訪れて営業が追いかけなくなったリスト」いただきます。
俗に言うボツリストですね。
確か4000組のリストでした。
これを、データベースソフトに打ち込んで営業とデータ解析を行います。
さらに、独自のポストイン資料を作成し、飛び込み営業。
その結果、入社1年後には支店の売上げのトップクラスに入る事になります。
また、今に続く営業の基本を独自に身につける事が出来ました。
ただし・・・
拘束時間は非常に長く、23時前に自宅に帰ることはありませんでした。
土日やGWはモデルに待機。
住宅に関する莫大な勉強と、設計士に頼らないプランニング作成。
とにかく、時間はありませんでした。

その当時のエピソードをひとつ。
良く、営業さんの話で「靴が減る」という話があります。
もちろん、私も靴は良く減り、最終的には、それなりの高級靴の底を頻繁に張り替えていました。
この靴の話の延長になるのですが・・・
車の摩耗が凄かったです。(営業車が社員所有車)
訪問している家の数を考えると、1日に平均で100回以上のドアの開閉をしていたようです。
その結果・・・ドアは良く壊れました。
鍵が掛からなくなったり、ドアハンドルが固まったり。
極めつけは、鍵が摩耗しすぎで鋭くなって・・・エンジンが掛けられなくなりました。
なお、国産車からボルボに乗り換える事になるのですが、この時に一つ一つの部品の作り込みが国産車と違う事を肌で感じる事になります。
また、これのノートパソコン版も経験しました。
発表直後のSony VAIOを購入したのですが・・・半年でキーボードが壊れてしまいました。
キートップの印刷なども直ぐに薄くなります。
その後も何度がVAIOは購入しているのですが、いつもキーボードが壊れます。
なお、VAIO以外はIBM(その中でも高価なグレード)を良く購入していました。
こちらは壊れません。
その当時のノートパソコンは非常に高級品でした。
VAIOは安かったですが、IBMとかDECは、50~80万であったと記憶しています。

◆年収1,000万超え
2年目には年収1,000万円を超えていました。
この会社は、私の辞める時には新入社員を100名採用するという急成長をするのですが・・・
この会社で売上げトップを記録します。
なお、値引率と回収率でもトップでした。
つまり・・・
・値引かない
・ミスしない(顧客とトラブルにならない)
・上記を叶えつつ売上げトップ

その当時を振り返って、今でも誇れるのが、ミスをしない=回収率のトップでした。
同業者なら、これがどれほど凄いことなのかをわかってくれるハズなのですが・・・
少し、一般の方向けに解説しますね。
まず、住宅業界はクレーム産業です。
当然ですが、契約時のウソはいけません。(これ、普通の営業は出来ていない方が多い)
正しい商品知識が必要です。(これも出来てない方が多い)
まじめにやっていても、建築中のトラブルが発生することがあります。
そして、計画から引き渡しは2年程度の歳月を必要とします。
その場限りの言い訳などをしていると、化けの皮が剥がれます。
普通はチームで事にあたるのですが・・・急成長故に、ここが極めて弱い会社でした。
結果としてなのですが、私は営業ですが設計に携わる事が多くなりました。
その会社に所属してる末期は、ほとんど表に出ない営業でした。
ほとんど事務所で、設計(プランニング)。
時折モデルルームに入っても、私が追いかけないというエリアの顧客は直ぐに会社に返却。
一つのエリアに1件目のお客様が出来ると、そのご紹介で次から次に契約が来まる。
会社の同僚(監督や設計)などからは評判は悪かったと思います。
思い切り正論をぶつけて煽っていましたから・・・
現在では、パワハラ認定されるような事を社内にはぶつけていました。

◆キャリアアップ
職安から入った一つ目のハウスメーカーは好きな会社でした。
休みはありませんでしたが結果を出している限りは自由に動かさせてくれました。
給料も同級生の数倍ですので・・・文句は無し。
問題と感じていたのは社長から、組子屋の兼業を辞めるようにという要望が入っていたことです。
今に思えば、私の負担を軽くしようと、色々と考えくれていた社長です。
これも、その一つだったと思えます。

もっと問題だったのが、途中から入ってきた、The営業という方との確執。
入社直後のスタートダッシュを決めて要職に就いてしまいました。
この方ですが、典型的なウソにより契約を取ってくるタイプ。
後々に、様々なトラブルを振りまく事になるのですが、成績の良さで周囲を黙らされてしまいます。
私は、数少ない、声を出してこの方と戦う人間でした。
その結果、社長に目を覚ましてもらいたいという観点から退社を決意。
しかし、契約済みのお客様に迷惑をかけることは出来ません。
会社には、事情を話して退職の約束を取りました。
その後、1年程度は基本給のみで会社に在籍。
その時は、営業指導とクレーム対応が私の仕事でした。
この時のクレーム対応なども、その後の独立の際に生きることになります。

二つ目の会社ですが、営業として現場に立たなくなってから探し始めます。
誰からの紹介かは忘れたのですが・・・
結果としてヘッドハンティングの様な形で新規に立ち上がるハウスメーカーから声が掛かります。
若いことから役職などは示されませんでしたが、私が営業のトップであり、商品開発も入って良いと打診されました。
モデルハウスは標準仕様は確定していなかったのですが、想定されている内容を県外まで出かけて示されて・・・
これなら受けて良いな(お客様に売ることが出来る)と感じて転職を決めます。
結果としてですが、この会社は私との約束を守りませんでした。
当初、私に示した内容よりも、仕様的には数段劣る内容で販売仕様は固まりました。
私も、職人の腕まで投入して販促資料などを作っていましたが、ある段階から営業することを拒否。
※お客様に責任が取れませんので
結局は、半年ほどで別の会社に移ることになります。
なお、この会社はブランド名を変えて、とても大きなハウスメーカーになっています。
実は、Web制作会社を起こしてから、この会社のCM作成に携わる事になるのですが・・・
見事に支払いはされませんでした。(私が居るとは知らなかったバス)
まあ、そういう会社という事です。

三つ目会社は、過去の実績を引っさげて飛び込みで売り込みをしました。
こちらからの条件は、副業を認める事と、ある程度の給与。
最終的にフルコミッション営業となり、0 [Zero]の設立まで在籍することになります。
この会社では・・・・
・設計(プランニング)
・仕様選定
・CG作成
・組子職人
・営業
この全てを私が担当します。

10):0 [Zero]起業 2001~

・気が付くとWeb屋に
・EGUmedia設立
・東京に進出
・飛び込み営業で特定分野のトップに

◆気が付くとWeb屋に
住宅営業と組子屋は上手に兼業が出来ていました。
時代はもうすぐ21世紀。
Windows98くらいの時だったと思います。
そのタイミングでネットから組子細工の受注をする為に、Webサイトを立ち上げます。
まだまだネットの普及率は低い時代でしたが、都内の設計士からの案件など、価格を維持しつつ一定レベル仕事が出来るようになっていました。
そして、計算外が発生します。
自分で作った組子屋のサイトへの問い合わせが組子では無く、Webサイト制作依頼が増えてしまった事です。
そして、またしても転換期が訪れます。
それが、Macromedi Flash(Adobe Flash)との出会いでした。
確か・・・IBMの本国サイトだったと思うのですが、素晴らしいサイトになっていました。
その後、海外系のサイトを中心に調べると、Flashによる制作されていたことがわかりました。
その衝撃はすさまじく、「今なら、国内トップが取れる」とふと思いついて・・・

そこから、半年間Flashの猛勉強を行いました。

そして、知人からの紹介で地元の結婚式場の仕事を受注します。
一人で、HTML Flash JavaScript 写真撮影 レタッチ DTM 3DCGの全てをこなします。
この式場とは15年程度のお付き合いとなるのですが、この出会いがなければ、ここから先の人生も変わっていました。
なぜなら住宅営業で、収入は十分です。
組子屋も細々と続けているので、満足ししていたハズです。

◆EGUmedia設立
その式場のサイトですが、結構な評判になっていました。
例えば・・・その式場のサイトをみた求人が、京都から入ったそうです。(式場は山梨)
SEO対策などもされていたことから、あらゆる地域から問い合わせが入っていたようです。
まず、デザインは海外ブランドと同等(すいません。ギリギリ著作権セーフレベル)
大きな違いはFlashの欠点であったローディングが極めて少なかった点。
その後、「前読み」と技術に名前を付けますが、最初は最低限の読み込みをします。
ユーザーがページ閲覧をして帯域に余裕が出来ると、先のページを裏で読み始める。
もちろん、別のアドレスは読むことは出来ないので、Flashの共有swfとして先読みをする・・・
一定のプロでも、何を言っているのかわからない状態ですね。
この実績を持って、友人含めた3名で、0 [Zero]の前身となるEGUmediaを起こしました。
資本は、私。
事務所の提供も私です。
確か30歳であったと記憶していますが、楽しい日々でした。

◆東京に進出
都内の最初の仕事は、ネットを介して知り合いになった私の車の師匠から。
紹介された先は、ボルボの直営店が新たな開設する中古車センターでした。
近くの方は覚えているかも知れませんが碑文谷のダイエーの近くのお店です。
Webサイトを制作したのが、2001年頃と記憶していますが、その時点でVRを既に採用していました。
その後も現在の中古車販売サイトに該当するシステムも内製。
他のプランドと比較すると、ボルボ直営店のシステムが充実していたのは・・・0 [Zero]による物でした。

さらに、この実績を元に、以下の業務を次々に受注。
・エステティックサロン(業界2位)
・ディズニーランド・オフィシャルホテル
・シャッターメーカー
・ミージシャン
・マンションデベロッパー(業界1位)

一部には法人化以降も含んでいますが、これを小さな山梨の会社が制作していました。
また、全てに共通するのが、お客様とのお付き合いが長期に渡ること。
そして、同業種から仕事を取らないこと。

結果として、その業界を代表するWebサイト安定的に提供していました。
特にFlashの全盛期は、都内のWeb制作会社でも0 [Zero]を知っている方は多くなっていました。
何らかの理由で契約が切れたお客様は、弊社がいなくなってから大変な苦労をすることになります。
例えば、エステティックサロンは弊社で4年間(0 [Zero]としては短め)制作していました。
それを引き継いだ大手広告代理は、サイトの更新に1年の時間を必要としました。
もちろん十分な時間と費用があって、この時間です。

その後に空撮中心の会社に変化するのですが、担当の方に元々はWeb制作会社であることを伝え、その実績を話すと・・・何人もの方がそのサイトを記憶していました。
今にして思うと、都内に事務所を移転したら・・・もう少し楽に稼げたのではと思えてなりません。

11):0 [Zero]の多角化 2003~

・プログラマは40代で退職
・社員の雇用を守りたい

◆プログラマは40代で退職
時は、'90年頃に遡ります。
その当時、この様な事を言われていました。

プログラマは頭が固くなる40代で退職になる。
それまではしっかりと稼ぐことだ・・・

古すぎる記憶である事から、書籍で見たのか誰かに聞いたのかすらわかりません。
当時は20代前半でしたが、自分が該当する年齢になったら気をつけようと思っていました。
覚えるべき言語の方向が変化する時代でもあり、今よりはプログラマに求められる能力が高かった時代です。

◆社員の雇用を守りたい
時代が進んで、'03年頃。
EGUmediaから、有限会社0と社名を変えて法人登記。
小さいですが自宅の一室を事務所とし、社員も雇い始めました。
この時にソフトウェア会社に勤めていた頃の経験が生きてきます。
まず、能力を適切に評価して十分な待遇を用意する。
そして、40代で引退という可能性が出てきてもWeb関連以外の仕事を社内に生み出して雇用を守る。
この観点から、様々な多角化の研究を行います。

研究したのは、以下の様な感じです。
・炒り豆屋(会社は旧3桁国道沿い)
・鑑賞エビ養殖(当時はバブル)
・写真撮影
・空撮業

特に空撮業には将来性を感じ積極的に投資。
研究開始から1年程度で、世界初となるVR空撮を実現することになります。
本業はWeb制作でしたが、現在に繋がる基本が生まれています。

12):ラジコン空撮・VR・Full Flash

・向かうところ敵無しのWeb屋
・スマホの普及を読み間違える

◆向かうところ敵無しのWeb屋
2006年頃には、VR撮影・ラジコン空撮を自社で制作出来るWeb屋になっていました。
本業でも、Flashの独自技術により行くところ敵無しと言う状態。
多数のコンペでも負け無しを継続しています。
Web制作会社としては、この頃がピークになります。

◆スマホの普及を読み間違える
私が重大な読み違えをした時期です。
iPhoneの登場により、Flashが衰退することを読み切れなかったから。

13):311とドローン空撮 2008~2017

・バルーン空撮を独占
・311が切っ掛けでドローン参入
・空撮屋としてのひとつの到達点

◆バルーン空撮を独占
バルーン空撮

◆311が切っ掛けでドローン参入
ドローン空撮

◆空撮屋としてのひとつの到達点
2012~2016年頃が空撮業としてのピークになります。
元々がWeb制作会社であったことから、SEO対策は完璧。
ネットを用いて空撮(ドローン)関係の事を探すと、尽く0 [Zero]のサイトに行き着いていた時代です。
これを書いてる2023年でも、その頃の影響が残っているとと感じるのは空撮業の料金表。
これ、全ての始まりは0 [Zero]の料金表を真似る事から始まっています。
基本料とかキャンセルの概念。
県外への出張料金の表現などに香りが残っています。
この時の問題は、空撮の最重要人財であるパイロットのスペアがつくれなかったこと。
私が居なければ、全ての撮影が成り立たないという状態を自ら生んでしまいました。

14):エアロネクスト起業 2017~2021

・守秘義務
・一般的な事として

◆守秘義務
エアロネクスト創業時代は基本的に色々と書くことが出来ません。
お察し下さい。

◆一般的な事として
公開されている事柄に関しては、表面の範囲では書くことが可能です。
・私が創業者でありCTO
・数々の賞を総なめ
・2021年に役員を退く

15):第2期航空機開発 2025~

途中ですが、一部公開に入ります。
以降も、作成は続きます。
2024/1/8

弊社SEO対策にご協力下さい

社長ブログもどきでは、「オリジナル」であることに主眼を置き独自の記事を制作しています。
バナーなどの不要なテキストはないのですが維持の為には社内に示す「結果」が必要です。
問い合わせなどを増やすために、以下の検索窓から「ドローン開発」という単語にて調べて頂けると助かります。

どこかに(もしかすると、3ページくらいかも・・・)に、
「ドローン開発の 0 [Zero]」
と言うページがあります。
これを「探し出して」クリックをして頂けると幸いです。

これからもオリジナルコンテンツの制作の為にお願いします。

Google WWW を検索 04u.jp を検索
Yahoo!検索 WWW を検索 04u.jp を検索
Home | ドローン空撮 | バルーン空撮 | 社長ブログもどき | 会社概要